「静かな港町」がなぜ「詐欺集団の巣窟」に?|光と影が交錯するシアヌークビル15年史
2025年、カンボジア南西部の港湾都市シアヌークビルは詐欺犯罪集団の一大拠点として悪名が日本のみならず世界中に広がった。 一方時を遡ること15年前、この街はまだ静かで寂れた港町であった。
シアヌークビル離島の観光ブランド化と本土への中国巨大資本の流入が同時に進んだ激動の2010年代、オンラインカジノ禁止令とコロナ禍が与えた大きな影響から、その狂乱の中で地道に続いた日本のODAと港湾株式25%を巡る中国勢と日本政府の攻防まで、2026年現在のシアヌークビルに至るまでの15年史を振り返る。
カンボジア南西部の港町シアヌークビル。
首都プノンペンから西へ約230km。 中国資本で建設された高速道路により今では首都から2時間ほどの距離となったこの街は、2025年春以来の各種報道により「詐欺犯罪集団の巣窟」として日本でもその地名が一気に知られることになった。
筆者がカンボジアで起業したのは2008年で、初めてシアヌークビルを訪れたのは2010年前後になる。ふとしたきっかけから当地の離島の美しさに触れ魅せられて以来、毎年のようにこの地に通うことになるのだが、この15年の間にシアヌークビルは劇的な変貌と遂げた。
本サイトの動画やブログは、普段は会社設立や銀行口座開設といったビジネス視点かなりカンボジア現地での実務色が強い内容が中心となっているが、今回は少し趣向を変えて、昨今不名誉な形で悪名を馳せてしまったこの港町が辿ってきた2010年以降の15年において、筆者自身が眺めてきたリアルな変遷を振り返ってみようと思う。
15年で激変したシアヌークビルのイメージ
少し前まで日本ではカンボジアという国自体の認知度が低く、世界遺産アンコールワットと言えば誰もが名前くらいは耳にしたことがあっても、それがカンボジアと結びつかない、という人も多かった。
それが2025年、日本のみならず世界を騒がせた詐欺犯罪集団の巣窟として、カンボジアという国名とシアヌークビルという地名の認知が一気に広がってしまった。今カンボジアやシアヌークビルと聞けば、まず多くの日本人の頭に浮かぶのは「詐欺犯罪集団がたむろしている危険なエリア」というイメージだろう。
しかし2010年代、このシアヌークビルという地は今のそれとは全く異なる2つのイメージをもって捉えられていた。
一つは美しいビーチが世界中に知れ渡ったことから聖地化したバックパッカー憧れの観光地であり、もう一つは中国の一帯一路の要衝として注目され巨額な資本が流れ込んだ港湾都市というイメージである。
2026年時点の結論的に、主に離島を中心とするバックパッカーの聖地は美しいまま残り、中国資本が流入した本土の街はコロナ禍を経て中国勢が撤収しゴーストタウン化した。詐欺集団が拠点として利用したのはこのゴーストタウン化した本土側ということになる。
時系列で並べると、この街の変化はこうなる。
- 2010年前後:欧米系バックパッカーが集まる、やや寂れたビーチの街
- 2013年:中国政府が一帯一路構想を提唱。シアヌークビルが海上ルートの重要拠点に位置づけられる
- 2015年:米国のリアリティ番組の舞台としてロン島が全米放映され、離島が世界に知られる
- 2016年以降:中国資本によるカジノホテルが本土に乱立
- 2019年8月:オンラインカジノ完全禁止令。何十万人規模の中国人が退去
- 2020年:コロナ禍が追い打ちをかけ、本土はゴーストタウン化
- 2025年:詐欺犯罪集団の巣窟として悪名が世界に広がる
2010年のシアヌークビルは、やや寂れた港町
当時からシアヌークビルはまだ小規模ながらもカンボジア随一の港湾都市として知られた。2008年にカンボジアに来たばかりだった当時の筆者が視察も兼ねて初めて訪れたときの印象を今でもよく覚えている。
日本が大型投資を続け今や大水深港となったとはいえ当時はまだまだ規模も小さく、港湾都市というよりまだ港町くらい、というフェーズだった。 海岸エリアは欧米系バックパッカーがゆるりとたむろする、やや退廃感も漂う寂れたビーチ。 もう漁村ではないくらいにはなっていたが、リゾートと呼べるほどでもない。ビーチに沿ってパラソルとソファーが並び、細い歩道を挟んで、屋台とレストランの中間のような飲食店が切れ目なく軒を連ねていた。
どの屋台・レストランでもほぼ1日中生ビールが0.5ドル程度で飲めた。2010年当時のドル円は、今の2026年からすると信じられないくらいの円高で(1ドル80円台後半くらい)、0.5ドルは当時の為替レートで40円ほど。40円で生ビールを飲み続けられる店がずらりと並び、ヨーロッパ人やアメリカ人が、何をするでもなく一日そこで過ごしていた。彼ら向けのゲストハウスは1泊5〜10ドルという水準だった。
海がすごく綺麗だと言われていたが、本土側のビーチを眺めた当時の個人的感想としては「よくあるごく普通のビーチ」。バックパッカー達のまったりした雰囲気は好きな人は好きだろうが、海そのものはごく普通のレベル、という程度の感想しかなかった。
遊覧船ツアーで触れたシアヌークビルの離島
筆者がとある仕事の目的で何度目かシアヌークビルを訪問した際、アポ調整の関係で予定がない時間が生まれホテル近くを散策中にふと目に入ったのが、半日かけて近隣の離島を回る遊覧船クルーズだった。 何気なく興味が湧き、とりあえず成り行きに任せればいい、と考えてそのまま飛び乗った。
そのクルーズ中に上陸したとある離島で、そのあまりに美しい景色に言葉を失った。 真っ白な砂浜とブルーとエメラルドグリーンが溶け合う海。滞在時間は1時間ほどだったが、それ以降ほぼ毎年シアヌークビルの離島に通うことが年中行事になった。
当時はたどり着くまでが大変だった。首都プノンペンからシアヌークビルまでは国道4号線で約230キロ。港と首都を結ぶ幹線なので大型のトレーラーがひっきりなしに走るのに、道路そのものは細く交通事故も多かった。着いた先のフェリー乗り場もカオスで、どのチケット売り場で買えばどのフェリーに乗れるのか、そのフェリーがどの島へ行くのかが、ギリギリまで分からない。 2026年現在ではプノンペンとシアヌークビルを繋ぐ高速道路が通り、本土から離島に向かうフェリーも相当整備されており、当時と比べるとまさに隔世の感と言える。
この離島はビーチの前面が大きな湾になっていて、外洋との接点が岬と岬の間の部分だけしかない。その結果、ほぼ終日、波が穏やかなまま保たれる。しかもかなりの遠浅で、沖に見える船の近くまで歩いて行っても、深さは膝上ぐらいまでだ。
人の少なさも快適な理由の一つだ。 美しいビーチを前にして視界に人が1人もいない状態を作り出せる。ルールもあまりないので、ワイングラスを持ったまま海に入り、遠浅の水に浸かりながら海を眺めてワインを飲む、という過ごし方もできる。ベストシーズンは3月だ。乾季で暑くなり始め、天気も安定する。
サーフィンが好きな人からすると波が小さく物足りない海かもしれないが、静かな海を楽しみたい人にとっては最高のスポットと言えるのでは。
TV番組がきっかけで離島がバックパッカーの聖地化
このいくつかあるシアヌークビルの離島の一つが、あるきっかけで世界的に有名になる。2015年にアメリカで放送された『サバイバー』というリアリティ番組だ。
見ず知らずの男女十数名が離島や僻地に集まり、集団生活を送る。過酷なゲームがあり、参加者の投票で強制的に退去させられながら人数が減っていき、最後に残った者が優勝する、という構成の番組である。その舞台として、シアヌークビルの離島の一つであるロン島が取り上げられた。
真っ白なビーチとエメラルドグリーンの海が全米で放映され、世界中のバックパッカーがロン島を知ることになる。そこからロン島は、ほぼバックパッカーの聖地のような扱いで語られるようになった。
それまで本土のビーチでビールを飲んで1日過ごしていた層が、こぞって島へ渡るようになる。当時のロン島はまだ漁村の島だったはずだが、そこから少しずつレストランができ、開発が進んだ。観光地化は、宿と交通の整備を必ず伴う。島の側では、その動きがこの時期に始まった。
そして、その裏側では同時にもう一つの流れが走っていた。中国からの巨大資本の流入である。
一帯一路と中国資本が、シアヌークビル本土を変えた
一帯一路の「一路」とシアヌークビル
一帯一路という言葉を耳にしたことのある方は多いと思う。2013年に中国政府が提唱した巨大経済圏構想だ。
「一帯」と「一路」はそれぞれ別の意味がある。「一帯」はいわゆる「陸上ルート」であり、中国の西部(西安や新疆ウイグル自治区など)を出発点とし、中央アジア、ロシア、中東を経由して、最終的にヨーロッパに到達する。 かつてのシルクロードを現代に復活させるようなユーラシア大陸を横断する陸上ネットワークに、鉄道や道路、パイプラインを整備していこうという話である。 一方「一路」は「海上ルート」。中国から東南アジアを通り、インド洋を経てアフリカへ至る海路について、中国政府の資金で港湾などを整備し、中国が通れるようにしていこうという構想であり、海上シルクロードとも称される。
この「一路」側の構想で、シアヌークビルが一帯一路の重要拠点と認識される。
中国から親中国であるカンボジアを経由してタイ湾に抜ける、「一路」の玄関口としての重要な役割を担う重要戦略拠点と位置付けられた。
その結果、中国の投資が一気に加速する。中国資本による巨大な港湾整備が進み、首都プノンペンとシアヌークビルを結ぶ高速道路も、この重要性を背景に中国の投資で2019年に着工、2022年に開通した。今この区間を極めて快適に移動できるのはこの一帯一路を推進する中国資本のおかげと言える。
乱立するオンラインカジノと悪化する治安
同時に、シアヌークビルには中国資本のカジノホテルが次々と建った。どういうお金で建っていたのかについては諸説あるが、結果としてこの街は数多くのカジノホテルや中国人向けの商店やレストランが乱立する場所になり、どの看板もほぼ中国語だらけで街はほぼ完全にチャイナタウン化した。
シアヌークビルに乱立したカジノホテルは、ラスベガスやマカオのそれとは異質なものとなった。外から見て派手なカジノもあるが、地味な建物も多い。そのほとんどが、オンラインカジノと呼ばれる施設だった。
オンラインカジノは客が現地に来てカジノを楽しむのではない。ホテルの一室一室にカードゲームのテーブルとディーラーが置かれ、その様子がオンラインで配信される。実際に賭けているのは、シアヌークビルに来ている客ではなく、配信を見ている海外の人間だ。わざわざシアヌークビルに来なくてもカジノができる。ただしカジノをやっている場所はシアヌークビルである、という建て付けだった。
このオンラインカジノホテル建設が急増したのが2016年以降になる。つまり2010年から離島がバックパッカーの聖地として観光ブランド化していく一方で、本土では中国資本が経済特区やオンラインカジノを軸に流入していた。同じ街で、正反対の性格を持つ二つの開発が並走していたことになる。
その本土側で、しだいに中国マフィアの流入や抗争、発砲事件の発生といった話が出てくるようになる。 カンボジア国内の至るところで、シアヌークビルはかなり治安が悪く行くのは危険、という悪評が立ち始めた。
2019年のカジノ完全禁止令と、その直後に来たコロナ禍
2019年8月、当時のカンボジア首相だったフン・セン氏が、シアヌークビルのオンラインカジノ完全禁止令と呼ばれるものを発令する。
具体的には、シアヌークビルでのオンラインカジノライセンスの新規発行を停止し、既に発行済みのライセンスについても2019年限りで翌年以降の更新を止める、という内容だった。
背景には中国政府からの圧力、あるいは要請があったと言われている。カジノ施設はシアヌークビルにあるが、賭けているのはオンラインの先にいる人間だ。中国から見れば、自国民が賭けた資金がカンボジアのオンラインカジノに消えていく、つまりキャピタルフライトに映る。犯罪者グループの存在も当時から指摘されていた。
何十万人が去った2019年後半
禁止令の結果、2019年8月から年末にかけて、何十万人規模の中国人がシアヌークビルを去ることになる。規模としては民族大移動に近い。
中国資本が入る前、シアヌークビル州の人口は10〜20万人という規模だった。 中国勢が一斉に帰国し空港で行列を作る中、帰国人数を集計してみたら州の人口に匹敵する規模の中国人が流入していたことが露呈した。 ほぼ完全にチャイナタウン化していたという事実が定量的に示された感覚であった。
もっとも、当時は誰もが、ほとぼりが冷めれば中国勢は戻ってくるだろうと考えていた。 年が明けて2020年になれば、首相が発令したオンラインカジノ禁止令もあの手この手でうまく乗り越える輩が現れ始めて、また元の通り中国人が好き勝手するチャイナタウンに戻るだろうと当時現地の誰もが予想していた。
建設工事は次々と中断され街はゴーストタウン化し、やがて詐欺集団の巣窟に
そこに、誰もが予想し得なかった事態が発生する。
2019年12月、中国の武漢で原因不明の肺炎患者が続出した。年明け2020年1月に武漢がロックダウンされ、3月には世界保健機構(WHO)が世界的なパンデミックを宣言する。 いわゆるコロナ禍の始まりである。
2019年半ばにオンラインカジノが禁止されて中国人がいなくなり、そのうち戻ってくるかと思っていたところにコロナ禍が始まり、中国のロックダウンで誰も帰ってこなくなった。オンラインカジノのビルはほぼ稼働を停止する。建設中だった大量のビルも、工事が途中で止まったまま放置される。そのまま本土側はゴーストタウン化していった。 空き家になったオンラインカジノの建物はオンラインで詐欺犯罪行為を働く施設としてはうってつけの構造となっており、コロナ禍が明けた2022年あたりから街には詐欺犯罪集団関係者が出入りが急増したと言われている。 その後、事態を重く見たカンボジア政府が本腰を入れて捜査に動き出し、2025年あたりから多数の詐欺犯罪集団拠点が摘発され始め、その報道が世界中に拡がりカンボジア及びシアヌークビルの悪名が世に拡散されながら現在(本稿執筆時点2026年8月)にいたっている。
一方で、本土から離れた離島から見える光景はすこし違っていた。2016年以降、本土に入り込んでいた中国資本は、次第に近隣の離島にも及んでいた。 バックパッカーの聖地化したロン島でも巨大リゾート開発の建築が着手されており、筆者がよく訪れていた離島でも日帰りの中国人団体が一度に押し寄せ1時間ほどビーチで騒いで帰っていく光景が散見されるようになっており、規模は小さいながらもオンラインカジノであろう建物の建設基礎工事が始まっていた。
当時は「この離島も本土のようにチャイナタウン化していくのか、、」と嘆いていたが、パンデミックが到来し、中国資本による離島侵食は本格化の手前で沈静化され、やがて引いていった。
経済的には、中国資本が一気に引いたことはシアヌークビルにとってもカンボジアにとっても大きな打撃ではあった。ただ離島を愛する人間からすると、あの美しいビーチは汚されずに残ったで良かったと感じざるを得ない。
日本が約1,000億円を投じた港湾の株式13.5%を巡る日中攻防
シアヌークビルは、実は日本とも極めて関わりの深い街である。
この街には大きな港がある。ここの港湾は1999年から、日本が一貫してODAで開発支援を継続してきた。ODAにはいくつか種類があるが、使われたのは円借款と呼ばれる円建ての低利融資と、返済不要の無償資金協力の組み合わせだ。直近2026年までの累積で、約1,000億円相当の資金が日本から注入されている。コンテナ船が大量に入る港湾としての機能は、これによって大きく改善した。(出典元:国際貿易投資研究所(ITI)のカンボジア出張報告)
そのシアヌークビル港の運営を司るのが、シアヌークビル港湾公社というカンボジアの国営企業である。この会社が2017年、カンボジア株式市場に上場する。
上場に際して、政府100%だった株式のうち25%が放出されることになる。ところが、カンボジアの株式市場は当時(今もそうだが)盛り上がりに欠けており、25%のうち従業員持株会と一般株主向け売り出しを除く約13%の引き受け手がなかなか現れなかった。
そこにとある中国企業が手を挙げる。相当数の株式を引き受けた上で、役員まで派遣するという話だった。
当時、筆者はカンボジアの株式市場に関与している証券会社の方々と接点があったので、この件については色々と話を伺う機会があり、特に日系関係者の間の空気はややざわついていた。日本が何百億円(2017年当時)もつぎ込んできた港湾の運営会社の株式が相当数中国に押さえられてしまうもしれない。シアヌークビルが一帯一路の重要拠点と位置づけられている以上、現地最大の港湾公社の持分が株式上場により正々堂々と手に入るとなれば中国が興味を示すのは当然である。
結果的に、この株式を引き受けたのは日本の政府機関だった。日本の政府機関が海外の特定企業の株式を引き受けること自体が極めて異例の事態である。が、この判断がなければ、シアヌークビル港湾公社の資本構成は今とは違う姿になっていた可能性が極めて高い。
JICAによるカッコ良過ぎるエクイティ・ファイナンス
その株式を引き受けた日本の政府機関とは、日本のODAを一元的に実施・管理する独立行政法人国際協力機構(Japan International Cooperation Agency、JICA)であった。
取得したのは発行株式総数の13.5%。当時、75%を保有するカンボジア経済財政省に次ぐ第2位の株主(民間としては筆頭株主)となった。
先述の通り、証券会社や市場関係者の間では「中国企業が手を挙げている」という形で話が回っていた。 それが事実だとすれば、港湾公社の株式13.5%が中国企業の手にわたるのを、JICAが未然に阻止した形となる。 なお本件については後に日本経済新聞が「シアヌークビル港湾公社の上場時に中国政府が株式取得に動いたためJICAが対抗して取得した」と報じている。(出典元:日本経済新聞の報道)
JICAはODAの実施機関であり、本来は資金を貸す、あるいは供与する立場にある。株主として企業の資本に入るのは、その役割から一歩(どころか相当に)踏み出している。しかもJICAは株を引き受けて終わりにはしなかった。推薦の非執行取締役を派遣し、経営面からも関与している。資本と人の両方を入れた形である。
さらに上場のわずか2か月後、2017年8月に新コンテナターミナル整備事業の借款契約が調印される(供与限度額は235.02億円、金利0.01%、償還期間40年の円借款)。
ちなみに上場を迎えた2017年6月の時点でこの港へのODA累計は供与限度額ベースで約205億円だった。 つまりそれまでの18年間で積み上げた総額を、この1件だけで上回る規模の円借款であった。(出典元:外務省のODA案件概要)
そして2018年2月、JICAは保有株式13.5%のうち2.5%を、国・大阪市・神戸市も出資する特定港湾運営会社である阪神国際港湾株式会社へ売却する。
続いて2019年5月、残る全保有株式を日本の港湾運営を軸とする老舗の総合物流企業である株式会社上組へ譲渡し、JICAは株主から完全に退いた。
つまりJICAは、巨額のODAを注ぎ込みシアヌークビル港湾公社を育てながら、中国がその公社の民間筆頭株主となりかけたところを上場直前で阻止する形で自ら大株主となり、ほぼ同時に過去最大の円借款を実施、そして推薦の非執行取締役の派遣も行い、然るべき株主(日本の民間港湾会社)に株式を譲り渡す橋渡しを見事に演じ切ったわけである。
スタートアップ投資(いわゆるベンチャーキャピタル)界隈の経験者視点から言うと、ここまで見事なエクイティファイナンス支援ケースは滅多にお目にかかれる事例ではない。
「日本政府、こういうカッコ良いこともするんだな。。」というのが当時の筆者の率直な感想であった。
光と影が交錯するシアヌークビルの15年史
2026年から振り返るとこの15年の間、中国資本はシアヌークビルにおいて怒涛の勢いで一気に不動産開発を行い、コロナ禍を堺に一気に撤収し、そして廃墟が残った。 一方、日本は25年以上かけて地道に港湾整備・拡張を続け、国から民間への橋渡しも務め、その港湾は今も進化を続けている。
このシアヌークビルの一例だけで日本と中国の違いについて断定的に論ずるわけにはいかないが、あくまで私見として、両国による投資の性格・性質の違いが端的に現れた典型事例と言えるのではないか、と考えている。
シアヌークビルの2010年代は、離島の聖地化と本土の中国化という二つの流れが同時に起こり、そこに1999年から続く日本のODAの流れが港湾公社上場を通して中国化の流れと交わる、という光と影が交錯するような10年間であった。
そしてコロナ禍発生からの5年で、本土の中国化が生んだゴーストタウンは詐欺犯罪集団の巣窟と化す。 しかしその本土でも港湾は拡張・活性化を続けており、離島の美しいビーチはそのままの姿で残っている。 光と影が織りなす歴史は依然継続している状況である。
2026年中盤現在、シアヌークビルといえばその影の部分のみ耳目にふれる地名となってしまっているが、筆者としては光の部分がまた脚光を浴びる日が来ることを願って止まない。
この記事のもとになった動画は前後編に分かれている。前編では実際に離島のビーチを歩きながら撮影した映像を、後編では場所をプノンペンのオフィスに移して、港湾公社の上場をめぐる話を収めている。白い砂浜と遠浅の海がどの程度のものかは、文章より動画をご覧いただくことをお勧めしたい。
参考リンク
- 2026年のカンボジアで、事業をする意味はまだ残っているか
- 物流の現場から見たカンボジアの産業構造の変化
- タイ・カンボジア国境紛争が日系企業に与える影響
- タイ総選挙とカンボジア国境情勢のその後
- カンボジアビジネスサポートの進出支援サービス
本記事は、カンボジアビジネスサポート公式YouTubeチャンネルの動画(前編・後編、2026年収録)の内容をもとに再構成したものである。ODA供与額・株式比率・株主構成等の数値は各機関の公表時点のものであり、最新の状況とは異なる場合がある。投資に関する判断はご自身の責任で行っていただきたい。
中国政府およびカンボジア政府の政策判断に関する記述は、カンボジアに在住する外国人の視点からの分析であり、各国国内の見方とは異なる場合がある。また、上場をめぐる市場関係者間のやり取りに触れた部分は、当時現地にいた筆者の見聞に基づくものである。
まずは進出相談